ドルイド僧の魔術

ギリシアの哲学者ディオ・クリソストモスは、ヒンドゥー教バラモン、ペルシアのマギ、そしてエジプトの司祭と同等のものと見ている。オカルト主義者ルイス・スペンスなどの著述家によってドルイド僧はシャーマンであるとの論説を出している。ドルイド僧に見られる習慣には 夜の焚き火、太鼓打ち 詠唱 恍惚の状態での踊りなどが挙げられ人間を犠牲にする社会に典型的に見られる物の怪に取り憑かれた集団であったとも言われている。しかし 聖職者の一員としてケルト人社会と信仰生活に大いに貢献し重要な役割を果たしたことは確かである。


ドルイド僧は宗教的儀式を執り行いケルト民と神々との仲介役を果たした。ドルイド僧の神託をと教育は、ケルト人の道徳心 倫理 天文学、自然の法則にまで及び 更には 神々の力によって得られる不死の概念まで教えた。彼らは ある種の樹木や動物の聖なる力には 病への治癒力が与えられていると信じ 宗教儀式や 病気治療に利用した。例えば天からのお告げは「ヤドリギ」に宿り解毒剤、或いは不妊治療にも使用された。これらは 家畜にも有効利用された。樫の木は 聖なる森から来たものであると考えられ その葉は、宗教儀式に欠かせないものであった。樫の聖なる森は 全ての決定を下す神殿としての役割と裁判が執り行われていた。ケルト人は とりわけ水の神々を信じ 川の水源 湖などで行われる集会もあった。


こうした儀式の一貫には、動物や人間の犠牲が神々に捧げられた。祈祷が始まり酒を酌み交わす。犠牲は枝細工の籠に入れられ生きながら火あぶりにされたり火刑の柱に括り付けられ剣で刺されたり矢で射抜かれたりされた。ローマ人を激怒させたのは この犠牲の残酷さであった。元老院法令は直ちに野蛮な習慣を不法としキリスト教改宗へと導いた。とあるが征服者であったローマ人の記述であることから これらの内容は疑うべきところでもある。後世のある著述家によれば これら儀式は 剣で突く真似だけだったとドルイド僧に対する弁明をしたが、多くの研究者は、儀式の習慣による犠牲は行われていたと言及している。


ドルイドの儀式の唯一現存する記録は「ブリニウス」の書き残した「ヤドリギ取り入れの儀式」である。月齢六日目 月は満ちる途中ではなく既に力が満ち溢れている。白い長衣をまとったドルイド僧が樫の木の根元に生贄の二頭の牛を繋ぎその木に登る。左手を使い金の鎌で ヤドリギを切り取る。このとき枝葉は 絶対に地面に落としてはならない。樫の木下では白い布で他のドルイドがその枝葉を受け取る。それが終わると二頭の白い牛が犠牲として神々に捧げられ祝祭が始まる。犠牲にされた動物などの苦しみを内臓の変化により読み取り未来の出来事を預言する。また宗教的祝祭の間は夢での占いもオkなわれた。ある男は ドルイド僧が詠唱をはじめると眠りに落ちる。その男は目覚めると直ちに夢の出来事を語り始め それをドルイド僧が未来の予言として解釈を行う。


17世紀 衰退したはずのドルイド僧に再び関心が集まった。イギリスの好古家 ジョン・オーブリは ストーンヘンジ建設に至ったのはドルイド僧であったと示唆する。学説とも呼べないずさんさであったため一世紀ほど無視されていたが18世紀ウィリアム・シュテュークリがオーブリ説に賛同。後に近代ドルイド教創始者となる。更に1781年「古代ドルイド教団」がフリーメイソンの影響をうけた大工のヘンリー・ハールによって慈善団体として設立されるも1833年には分裂。二十世紀初頭までに近代ドルイド教団が 5団体以上できたがそのほとんどが 現在活動を行わず消滅していた。

ヤドリギ

寄生性の樹木です。エノキ、ケヤキ、ブナ、ミズナラ、クリ、サクラ、などの落葉樹に寄生する常緑の小低木で、冬でも青々として生命力を感じます。宿主の落葉樹が葉を落とした冬に一見、鳥の巣のような直50cm位のまるい塊になって、宿主の木の幹や枝に鈴なりになっています。