怨霊神

mminazuki2005-11-06

宝亀三年、(772) 光仁天皇の后、 井上皇后が皇太子 他戸(おさべ)親王とともに光仁天皇を呪詛したとする事件が起こった。其れにより井上皇后は 后の位を剥奪されたばかりか 他戸親王も皇太子位を廃された。その後、光仁天皇の姉、難破内親王が死去するに及び 井上皇后がまた更に「魘魅大逆」を行い呪殺したと疑われ井上、他戸は、母子共々大和国宇智郡に幽閉され同日死んだ。是が井上皇后の怨霊伝説の始まりだとされる。


日本には、怨霊神として恐れられている御霊を祀った神社がいくつか存在する。非業の死を遂げた怨霊に対し祈祷しても祟りが納まらない場合は、怨霊を祭り上げ守護霊へと転換する方法が図られた。これを御霊(ごりょう)信仰と呼ぶ。 このような御霊信仰は、古代からあったとされるが 明確な形をとって現れたのは 奈良時代末期から平安時代にかけてである。

特に皇位争い政府高官位の争奪に破れ非業の死を遂げた権力者は 凶暴な怨霊と化して 社会に災厄を及ぼすと考えられてきた。皇室の変事、疫病 雷 地震 大火 大雨など 自然災害まで怨霊の祟りとみなされた。その背後には国家機構に組み込まれる呪禁師(じゅごんじ)や陰陽師が 天皇や高官などの病気や死、或いは天災地妖を怨霊と結びつけた。


怨霊となったのは 井上皇后だけではなかった。垣武天皇の次の継承者、早良親王は、皇太子を廃され淡路島に流され絶食したまま憤死した。その祟りを鎮めるため 垣武天皇延暦十九年、井上皇后を祭神とした上出雲の鎮守 御霊堂に祀りこめたのだった。(現、京都市上京区御霊前烏丸東)


怨霊として祀られたのは、垣武天皇第三皇子で服毒死 反逆の罪で同じく服毒死した藤原吉子など六柱である。非業の死を遂げた これら御霊に その後二柱加わり「八所御霊」と呼ばれ上御霊神社 下御霊神社に鎮斎されている。


上下両神社には 藤原時平の中傷で左遷され大宰府で失意のまま没した菅原道真も祀られている。落雷をもたらす天神と同一視された道真は 激しく祟る怨霊と恐れられた。(道真、北野天満宮



死後怨霊となった崇徳天皇 淳徳天皇は 明治天皇が白峯神社に祀った。祭り上げる事で国家および天皇自身の安泰を図ったのである。御霊信仰は 時代とともに推移し 当初御霊となるのは貴族中心であったが武家社会が 大頭すると御霊も武家や庶民へと変化していった。江戸時代では 特定の個人の横死 冤罪死などから御霊神は次々生み出された。愛媛県宇和島和霊神社は、御霊信仰の一種で和霊様を祈れば 豊穣 大漁の霊験があるとされ庶民の信仰が篤い。御霊代表格北野天神がそうであるように御霊信仰は 現世利益信仰に変化しているようだ。