番外編「○奇趣味」

mminazuki2005-08-08

夕闇迫る小学校の図書室で初級(児童向け)乱歩を経験した者にとっては、極自然に次の段階へと欲求が膨らみます。この時点では、グロテスクなものを求めては居なかったはずですが、乱歩の世界に一歩でも踏み入ってしまうと そのエロチシズムと恐怖 そしてグロテスクの三位一体に魅了されてしまいます。


私の怪奇趣味の歴史は、それより数年前に遡ります。夏になると祭りの出店で賑わう其のはずれにお化け屋敷と見世物小屋が並んで建ちました。見世物小屋の看板には、「アマゾンの大イタチ」と称する巨大生物の存在が いかに凶暴な化け物かを容易に想像させる赤いペンキが文字から滴り落ちています。私が見たいと懇願すると親たちは、口を揃えてこう言いました。「あんなもの見たって面白くないよ。」主導権とその懐にお財布を持つ大人には、かないっこありません。


仕方なく芸のないお化け屋敷で、竿にぶら下がる濡れ雑巾をや白布をかわしながら、メソメソと泣く弟の手を引きズンズンと前進するのです。そして あっという間に日光が洩れる戸口の隙間を発見すると いつもがっかりするのでした。


子供の頃、親から与えられた本以外を読む方法として近所の貸本店がありました。間口の狭いその戸を潜り抜けると左手には、子供向けの漫画雑誌や児童書、右手は禁断の大人のご本がずらっと並んでいました。狭い店の中には、お風呂用の腰掛が一つ置いてあり、本棚の高い位置に配されている本を手に取るときにはこの腰掛の出番でした。


店番のおじさんの顔は、いつもテラテラと赤く光り、その目は周囲の肉に押しまかされよく見たことはありません。怒っている風でもなく 優しい目でもありませんでしたが その何食わぬ独特の無表情さが子供の私を腰掛にひょんと乗せ右手の本棚から何度も本を引き抜かせました。これがおばさんだと そうは行きません。腰掛に乗った瞬間、毅然な態度で「危ないよ!」と叱るのです。


当然私は おじさんの店番の時を窺うのです。梅図かずおを上下に挟み 無言で差し出すと本を手に入れ店をスルリと抜けます。この頃読んだ禁断の本棚の中で赤茶けた古い小説が乱歩だったと思いますが、あまりに古いことで記憶が定かではなく、その後 乱歩の美女シリーズを描いた天地茂さんの明智小五郎と同化しているようです。


しかし恐怖の旋律を味わうつもりで読み始めた「芋虫」によって乱歩の世界から足を洗う事になったのは間違いありません。文中の描写か其のリアルな挿絵からだったのか 「芋虫」は、半ばで嘔吐しそれから数日 食物が喉を通らなかったのを覚えています。今だ 「芋虫」だけは、トラウマです。しかしながら いかなる本にも当てはまることですが挿絵の効果は、絶大であります。読み手側の漠然としたイメージは、ページをめくった瞬間あらわれる挿絵に拠って明確になり定まった人物像は、頭の中で動き始めるのです。


先日、山梨県甲府市の「竹中英太郎記念館」にお邪魔させていただきました。竹中英太郎さんは、夢野久作江戸川乱歩 横溝正史など 昭和初期のミステリー小説の表紙や挿絵を描かれた方で、私は 其のお名前を最近 不思議亭文庫さんで知りました。


こちらのサイトは、ミステリー黄金時代の原書をコレクションしていらっしゃり、それの内の外国のご本を翻訳され自費出版されています。不思議館で最近UPされたボルジア家の毒薬を拝見したばかりの興奮冷めやらぬ時、不思議亭文庫さんのジョン・ディクスン・カーの毒殺百録を見つけまして注文させていただきましたのですが、そこで竹中英太郎コレクションを知る事となりました。

偶然が偶然を呼ぶというのは、このことかも知れません。偶々私はお友達のお供で、山梨に一泊旅行を予定していましたが、予約した太宰治のゆかりの温泉旅館と「竹中英太郎記念館」は、歩いても目と鼻の先ほどの距離。是非実物をこの目で見ようとタクシーに乗り込みますと突然の雷雨に見舞われましたのです。何日も日照りの続く甲府には、恵みの雨?だったかは、存じ上げませんが一部地域は、冠水したとタクシーの無線から流れてきました。しかしこの土砂降りと雷のお蔭で傘を持たない私たちは、館長の金子紫さんとの掛け替えのない時間を過ごすことが出来ました。


紫さんのお話の中に「不思議亭」という言葉を耳にし こちらも偶然ではありますが不思議亭文庫さんと金子さんは、英太郎さんを通じ とても仲良しのようでした。金子紫さんは、英太郎さんのお嬢さんであり 「紫」と書いて「ゆかり」さんと読むお名前もお父様の英太郎さんがお付けになられたそうです。栄太郎さんのお嬢さんにしては、あまりに若すぎる「金子紫」さん・・・・は 栄太郎さんの絵に囲まれて時の止まった世界に棲んでいらっしゃるのかも知れません。近々初期に描かれた白黒の描画も展示されるそうですので、私は是非またお邪魔したいと思いました。

不思議亭文庫さんからご紹介いただきました挿絵画家『竹中英太郎』さん関連のサイトです。

百怪、我ガ腸ニ入ル(只今品切れだそうです。)

表紙絵ギャラリー

☆以下は、竹中英太郎さんのプロフィールです。

新青年」と言う雑誌があった。大正9年に創刊され昭和25年まで続いた都会派の雑誌である。大らかな日常の中、モダンボーイ、モダンガールが青春を謳歌していた素晴らしき時代 おどろおどろしい雰囲気を作り出す江戸川乱歩 横溝正史 夢野久作 久生十蘭 小栗虫太郎などの探偵小説に当時の青年たちは熱狂した。昭和3年 その「新青年」編集部を訪れた一人の男が居る。それが竹中英太郎であった。当時の編集長、横溝正史から一冊の分厚い原稿を渡された。タイトルは江戸川乱歩の「陰獣」。英太郎は、「陰獣」の挿絵を描いた事から「新青年」に数々の作品を発表する事になる。松野一男、岩田専太郎らとともに彼ら挿絵画家たちは、一種独特な「新青年」と言う雑誌のイメージを創り上げてゆく。


ふと気づくと英太郎は、大衆画家の頂点に立っていた。望んで得たわけではない名声と収入 それは心地よい状況の変化ではなかった。その頃彼の志は時代の流れに逆行していたのである。昭和10年 横溝正史「鬼火」の挿絵・大江春泥画譜を遺し満州へと旅立つ。流行画家としての生活を捨て 求めた大陸への熱い思いは いかほどであったろうか。石原莞爾と親交を結び 五族協和王道楽土の新世界を夢に見る。「月刊満州・日本語版」「少年満州実話集」の編集は其の思いの一部であった。ところが東条英樹による石原弾圧の陰謀の影響であろうか 昭和14年 英太郎はハルピンで憲兵隊に逮捕され 内地へと強制送還された。やがて時代は全面戦争へと流れ行く。


戦後 彼の画壇復帰を望む声に対して 英太郎は「絵をうらない生活」を望んだ。疎開先の甲府に落ち着き 地元の労働運動に深く関わるようになったのは、昔夢見た初志の回復を目指してのことであったろうか。その後 山梨日日新聞論説委員地方労働委員会会長を歴任。昭和40年代にはいると 志を同じくする長男の「労」に請われるまま再び絵筆をとった。労の個人誌 著作 ポスター そしてレコードジャケットの装丁など、戦前のモノクロームから鮮やかな色彩へと画風は変化してゆく。墨、 日本絵具 パステル 油彩 ポスカラを自在に用いて描き淫美な世界は それまでのブランクを全く感じさせなかった。


昭和54年 五木寛之戒厳令の夜」映画化にあたり 物語の展開に不可欠な五点の作品を描くため 南米コロンビアを訪れる。帰国後 「少女」三点を含む五点の作品を完成させたのであったが 映画スタッフによって「少女像」のうち一点には穴を開けられ もう一点は火の中に投じられた。栄太郎の描く絵は単にエロ・グロナンセンスとか怪奇といったノンポリテックなものではなく彼の生きざまとともに ある志のよって裏打ちされていた。故に栄太郎は映画スタッフに対し穏やかでは在るが強く抗議。彼自身の信念と 自己の作品に対する愛があればこその行動である。映画スタッフは、非礼を詫び この一件は決着をみた。


昭和61年 八十歳になった英太郎は「花電車の女」を描き その後に筋無力症を患う。細い線を描くことが出来なくなったために 扇画に花・貝殻など小物を配した作品を いくつか残している。彼は死の直前まで現役を守ったのである。昭和63年 4月8日 所用で上京中発作に襲われ 新宿の街頭で倒れた。救急車が駆けつけたとき 命絶えていた。
「畳の上では死なぬ」
と言う平生の口癖通り 肉親に永別の刻を与えぬ大往生であった。虚血性心不全 享年八十二、 波乱万丈型破り スケールの大きな人生であった。つつじヶ崎霊園の自然石には 自らの手で刻んだ墓碑銘がある。
「せめて自らにだけは、恥じなく眠りたい、と」英太郎


湯村の杜 竹中英太郎記念館
     館長 金子 紫
    • 穴のあいてしまった「少女像」は、絵葉書がありますので、なるべく早くUPしたいと思います。
  1. 自殺サイト殺人事件

自殺サイト殺人事件、前上容疑者が殺害を自供してから、数日が経ち 捜査が進むに従い 前上容疑者の動機や異常性癖などが明るみになっていった。昨日の報道では、前上は、中学生のときに人を窒息させる江戸川乱歩の小説の挿絵を見て興奮したと発表された。このような事件になると、マスコミは、こぞって きっかけとなった問題の小説や本を槍玉にあげ 挙句作者にその責任を転嫁しようと躍起になる。前上容疑者が強く影響された「窒息の挿絵」が 竹中英太郎さんの描かれたものであることは、判明されていないが竹中英太さんの名誉のためにも記しておきたい事柄が何点かあります。

1935年、竹中英太郎氏は「大江春泥作品画譜」を最後に筆を絶っている。その後、息子労氏のために描く 英太郎氏の画風は、それまでの猟奇的なものとは、異なり妖美に満ちた女性を美しく ときに儚く描いている。私は何故、英太郎氏が筆を折ったのか?あの日、山梨の記念館を訪れた日から、ずっと考えていました。館長でありお嬢さんの紫さんは、その理由の一つに「大金を手にした英太郎氏が自堕落な生活に陥り 是ではいけないと思い知り描く事をやめた」とそう仰られていましたが 私はそれだけの理由ではないと そう感じていたのです。第一に少女像の事件が挙げられますが、彼の自分の絵に対する我が子 我が恋人にも値するほどの情熱は、計り知れません。また英太郎氏が一旦絵筆を置いた1935年当時の実際の事件を調べてみましたところ以下の猟奇殺人事件が、二年ほど前に相次いで起きていたのです。
過去の事件に関するサイト
【事件】
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/jiken.htm
(首なし娘事)件http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kubi.htm
玉の井殺人事件)http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/tamanoi.htm
私の勝手な推測でしかありませんが、英太郎氏の正義感や責任感が、これら事件に無関心で居られるはずもないのではと私は考えました。必要悪の存在は、人に善悪を教えますが、その力は、限られ尚且つ使い分けが可能なのであります。日に日にエスカレートする怪奇小説の挿絵を描きながら、英太郎氏は、心の葛藤があったのではないでしょうか。栄太郎氏は、自分の事は何もおっしゃらない方だと、あるサイトに書かれていました。また当時の挿絵についてですが、当時出版社で印刷され不要になった挿絵や表紙は、廃棄処分にされていたそうです。白黒画が現存していた理由は、今で言う廃品回収業の方が、英太郎氏の作品を好んで、出版社で処分されるごとに保管していたからでした。私は今回記念館を訪れた事によって栄太郎氏を知り その生き方を反映する作品の移り変わる様子を拝見しているうち、もっと栄太郎氏を知りたく思い、まづ一旦筆をおいた「わけ」を考えていた最中のこの事件でした。