テンプル騎士団


1307年10月13日金曜日フランス王フィリップ四世は騎士団を逮捕。
以来 毎年この前夜には 亡霊が現れるといわれている。
彼らは 血に染まったマントを羽織り低く響く声でこう言う。
誰がこの聖墳墓を開放する?誰が神殿を守る?
すると 7つの頭骨がこう答える。
誰もいない。騎士団はつぶされた。



白地に赤い十字の旗で知られるテンプル騎士団は、1119年から1188年までの間にフランス、シャンパーニュの"ユーグ・ド・パヤン"が少数の騎士とともに設立した。騎士道 十字軍 キリスト教信仰という気高い理想を持ち 厳しい修道生活を実践していた。テンプル騎士団は、富と力を蓄えながら 聖地巡礼者の保護と聖地から異教徒を 追い出すことに貢献し尊敬と名声を得ていく。本部(拠点)をフランスに置いたテンプル騎士団は ヨーロッパ・イングランドに分団を結成。全団員は総団長への絶対的忠誠を誓っていた。教皇に対してだけ責任を負う以外は 国王から課税されることもなく また世俗の法に従うことも必要無かった。


しかしその二百年後、汚らわしい非難の末 テンプル騎士団没落。


騎士団修道会の儀式は、外部に洩れぬよう秘密の内に執り行われていた。結果儀式についての好奇心や推測および噂が広まり、神を冒涜する儀式が行われているという話が語り継がれていく。

  • キリストが偽の預言者として捨てられた。
  • 十字架に唾を吐きかける。
  • 十字架を足で踏みつけにする。
  • 団員は同性愛に耽っている。
  • 黒猫の姿で現れたデビルを崇拝しその猫の肛門に接吻する。(恥辱の接吻)
  • バフォメットの偶像を崇拝していた。
  • 団員は子供を火で炙り燃えた脂肪をこの偶像に塗りつけていた。


このような噂話が語られている中 テンプル騎士団は 莫大な富を利用し商業を始める。敵に対しても金を貸し世俗の法の免責なども手伝い貴族からの反感を買う。とりわけ債務者フランス王フィリップ四世の怒りは頂点に達すとともにテンプル騎士団の土地、富を欲した。フィリップ四世の共犯者は、教皇クレメンス五世であった。1307年10月13日、フィリップは 異端のかどでパリの本部の総団長ジャック・ド・モレー以下140名の団員を逮捕した。多くの者は 神への冒涜と悪魔崇拝を自白。そのほとんどが決定的証拠がないにもかかわらず フィリップの騎士団への弾圧は尚も続く。11月22日 教皇クレメンスを説得したフィリップは、騎士団全員を逮捕し財産没収の旨を命じた大勅書(ダイチョクショ)を発行させた。


1310年 パリで騎士団の公判が始まる。
残忍な拷問に生き延びた者も列挙される多くの罪で告発され尋問を受けた。自白を拒否した54名の騎士団はパリ郊外で火刑に処された。偶像パフォメットに対する証言については、多くの騎士が 話は聴いたことがあるが見たことはないと答えるだけであったが 偶像の存在及び自白は 騎士団が異教徒イスラム教を取り入れた確たる証拠になるとされ騎士団は呪術 異端の罪で有罪判決がくだり火刑にされたのだった。

1311年クレメンスは公式にテンプル騎士団を解散させ その全財産を病院騎士団(ライバル)に渡すべし。と明示。フランス・イングランドの土地財産はフィリップとイングランド王 エドワード二世に渡り個人目的のために使用された。


一方7年間牢獄に繋がれていた 総団長ド・モレーは、1314年パリの処刑台に立たされていた。フィリップは ド・モレーに公衆の面前で告白をすれば処刑を免じ終身刑にすると約束。しかしド・モレーは その場で自分の無実を主張し 自分は拷問を受け嘘をつかされたと力強く抗議したのだ。彼は同日の夕刻、炎に包まれ苦しみ死んでいった。伝説によれば瀕死のド・モレーは こう言い残したそうだ。


フィリップとクレメンスは、一年以内に神の玉座の前で私に会うために神に召されるであろう。何故ならば 私は無実だからだ。


実際フリップス四世とクレメンス五世双方ともに一年以内に命を落とした。