六十干支運命方程式 


この頃になると、天体観測が進歩し暦法が整うと五行が暦に採用される。春の時期を「木」に、夏を「火」に 土用を「土」に秋を「金」、冬は「水」と配し季節を五行に置き換え 陰陽五行説が成立した漢の時代から数世紀経た隋・唐の時代(6世紀〜)に其のオリジナルが作成され その後 宋の時代に改良が加えられ 除子平によって「淵海子平」が著された。さらに明の時代になると 余春台が改編を行い「窮通宝鑑」も世にでて一年十二ヶ月の日々の生まれ日に対し其の理を説いた。日本では 江戸時代中期、「淵海子平」が中国から渡り文政年間に長崎の医者 桜田虎門により「推命書」という書物が著され「四柱推命」とした。五行を陰陽に分け十干にあらわし これを十二支の干支と結びつけ一定の法則で 相克 相生 大過 不及 旺衰を看て推察した。


万物は 五行の元素によって支配され この5要素の盛衰によって循環 進展していく。人間の一生も其の作用に影響を受け盛栄もすれば衰える時期もある。四柱推命では 人の生まれた日の「日干」を中心に、年 月 日、時間の4つの柱を導き出した【命式表】で先天運、その後の努力修行によって変化する後天運を推理する。


四柱推命の命式が簡単に作成できるソフト(スクリプト)を見つけました。
生年月日(生時)を入力すると 命式表(本人の運命)、現在の干支(現在の運勢)、大運(10年ごとの運勢)が簡単に作成できました。







四柱推命







生年月日と出生時間
本人 西暦



相手 西暦







数字は半角で入力してください。
相手の情報を入れると相性診断も行います。





【命式表】日柱に記される「天干」は、陰陽五行説から成る「十干」であり その干は、その人の持つ大まかな性格を看ます。
   木  火   土  金   水
陽 甲 丙  戊   庚   壬
陰  乙   丁  己   辛   癸

十干の持つ性質
甲=陽の木 大木、幹 人の上に立つ、十分伸びれば用材として社会に役立つ。
乙=陰の木 草花、枝葉、優しくひ弱そうに見えるが辛抱強く目的に向かって進む。
丙=陽の火 太陽 常に中心的存在、一方的。
丁=陰の火 人工の火 灯火 配慮気配りの利く性質。神経質 激怒しやすい。
戊=陽の土 山岳の土 堅く乾いた土 頑固 父性 抑制力をもつ。
己=印の土 田園の土で万物を育成する役目を持つ。母性
庚=陽の金 鉱石 鉱脈 強さを持つが 軽はずみな言動と脆さもあり
辛=陰の金 砂金や宝石 傷がつきやすい、物事を極め洗練されると光る
壬=陽の水 河水、湖沼 流れて留まらない、自由奔放。
癸=陰の水 雨水 霧 人に優しく奉仕する。自己防衛。

【命式表】日柱に記される「地支」は、十二支の干支であり その干支はその人の持つ大まかな性質を看ます。
十二支の持つ性質
子=冷静で客観的、流通奉仕関係の仕事に向くが色好。
丑=物を育てる優しさがあり表面陰でも内面は陽気。正直で忍耐強い。
寅=頭領運、仁義にあつい 金銭への執着心なし。
卯=計画的に行動する。制圧を極端に嫌う。
辰=信用を最も重んじる人。体力抜群
巳=礼儀正しいが執念深い
午=直情径行 開拓精神旺盛
未=円満主義で争いを好まない。
申=一見堅そうだが 内面は柔軟、新しいものへの挑戦
酉=改革心はあるも葛藤が多く保守的。
戌=頑固 強情だが、情に脆い面もある。
亥=猪突猛進、考えないで進んでいくと障害あり。




引用

  1. 九星気学

九星気学のルーツは中国で発達した方位学(風水・奇門)でこれら占術が江戸時代に日本に輸入され研究されたが当時の九星術は、今とはまるで違うもので混乱を招いた。これに終止符を打ったのが幕末に活躍した、家相家としても著名な松浦琴鶴で、彼が中国の文献に基づいて、現在の九星の配当の仕方を確定させた。

  1. 占星術

現在の占星術はBC6〜7世紀頃にバビロニア天文学者占星術師が作り上げたもの。バビロニアは、メソポタミア文明の発祥地の古名で、現在のイラクに相当する。占星術はこの地で生まれ、カルデア人神官たちの手で育てられた。しかし、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの征服されると、ゾロアスター教(マズダー教)により弾圧・迫害された。カルデア人神官たちは、人種差別をしないミトラ教の保護下に入ることで弾圧・迫害をのがれた。やがて、メディア人マギとカルデア人神官は混血し、ミトラ教の司祭団カルデアン・マギが誕生。メディア語とアラム語の両方を使いメディアとカルデア両方の宗教的伝統のすべてを継承しミトラの秘儀の中に占星術を組み込んだ。占星術の正式な継承者は ミトラ教とともにバビロニア占星術を広め その後のヘレニズム文化の中でまとめあげられAD2世紀のプトレマイオスが書いた『テトラビブロス』は初期の完成形を伝えるものとして貴重。占星術は中東の地で発展し、インドや中国にも伝わりそれぞれの地で独自の発展を遂げた。一方、ヨーロッパでもルネッサンス期以降輸入されて研究者が増え産業革命以降は教会による思想統制が緩むと「教会を通さずに人の運命を知る方法」も自由に研究できるようになり、17世紀イギリスのウィリアム・リリーは清教徒革命時代の自由な雰囲気の中で名著『Christian Astrology』を書き上げる。

  1. 四柱推命

四柱推命創始者は中国の宋代の徐子平(徐居易)とされ その後、徐大升が「淵海子平」を著し、明代には劉伯温が「滴天髄」を著しており、この2つの本は共に四柱推命学の根本の書となる。18世紀、日本では正徳年間に伝わり的中率も高い代わりに難解な占術であったため次第に本来の形からは姿を変え迷信的な解釈が横行した。この傾向は戦後間もない頃まで続き、不必要におどろおどろしい名前の象徴が使用された。

  1. 手相

手相のルーツはかなり古く インド起源説が有力だが、明確ではない。旧約聖書ヨブ記37-7に「人の手の業をすべて封じ込め、すべての人間に御業を認めさせられる」という記述があり、手相について述べられているともいわれている。以降、ギリシャ時代、中世でも手相の研究が進められた。日本では江戸時代 中国から神相全編という手相・人相の本が輸入された。

  1. タロット

タロットは14世紀後半 北イタリア近辺で生まれたと考えられ現在残っている最も古いタロットは1428年にミラノのビスコンチ家の令嬢の結婚式の記念に制作されたタロットである。その作者(画家)の名はBonifacio Bemboと推定されており、彼はこのビスコンチ家およびその後継となった親族のスフォルザ家のために、多数のタロットを制作しそれが全て「ビスコンチ・スフォルザ・タロット」と呼ばれている。

易の技術を確立したのは中国の周王朝(BC1027-770)の創始者・文王とされ 殷の最後の王である紂王に軟禁されますが、その間に易の占い方をまとめたとされた。殷では国家の占いに主として亀卜を使用しており、王朝が交替するに際して、文王は新しい国家の占いを創設した。当時、占いは国の政策決定に大きな力をもっていた。その後、易の解説書は「易経(えきけい,イーチン)」の形にまとめられ 「卦辞」「爻辞」の部分の大半が文王が定めたものといわれています。なお易経のその他の部分である「十翼」は孔子(BC551-479)が書いたものである。

  1. 七曜も十二星座

七曜も十二星座は、バビロニア起源であることが立証されている。これらを組織的に伝教したのもミトラ教である。七曜と十二星座の東方伝播経路をたどることで、ミトラ教の東方伝播経路は 漢代202 B. C.-220 A. D.には東アジア一帯に広がった。飛鳥時代には、日本にも伝わり、聖牛の供儀が各地で盛んに執り行われた。ミトラ自身は、中央アジアで仏教のマイトレーヤと融合するかたちで中国に到来し、弥勒と呼ばれるようになる。ミトラ教バビロニア占星術を中国に持ち込んだ。十二星座・二八宿は、当時の中国の十二支・二八宿と融合した。七曜とミトラ教の呪術的な側面は、中国道教における北辰(北斗七星)信仰に結びついた。二八宿は、仏教経由で中国に伝わったが、すぐに中国化・道教化した。ミトラと十二星座の結びつきは、弥勒教においても継承され、弥勒は十二星座界の主と呼ばれるようになった。弥勒教においては、占星術と風水が結びついた。