コトン・メイザー

mminazuki2005-06-03

1640年代、ニューイングランドでは ウィッチクラフト(妖術)に関する訴訟が相次いで起こる。
セイレムの魔女裁判において悪い意味で中心的役割を担った"コトン・メイザー"は、飲酒 舞踏、呪い(まじない)自然災害や地獄と言った「闇」に強く関心を抱いていた。ボストンの聖職者でありハーバード大学学長のインクリース・メイザーの息子コトン・メイザーは、早熟な子供だった。12歳でハーバードに入学。聡明かつ人望も厚いピューリタンの彼は 25歳にしてボストンの教会で指導者的な地位につく。彼は自らをピューリタン救済のため神から選ばれた一人であると考え父のインクリースとともに悪魔にとり憑かれた若い女性の訴訟事件の調査等を行なっていた。

お集まりの皆さん、この『汚らわしきもの』を正確に定義することは
私には 期待していないと思います。神のご加護により幸いにして
私はまだそれを体験したことがないからです。
しかし 本で読んだことや人にきいた話から それがどの様なものか
皆さんにお話できるようになりました。」

C・メイザーは、聖書エンドルの巫女の記述を熟読した。また魔女の存在と邪悪性を立証するウィリアム・パーキンスの軽信的著作をも受け入れ魔女の存在を立証するためイングランド、ヨーロッパ各地で過去に起きた裁判の情報を収集し「告白」された「証拠」を引き合いにだす。彼の主張は、「白魔女」の定義にまで及ぶ。

自称白魔女も実は邪悪な存在として取ることができうる。
後に引き起こす大混乱のために今はじっと善行を行っているのだ。

C・メイザーは、魔女裁判と刑執行の正当性を主張し、1689年「妖術と悪魔憑きに関する記憶すべき摂理」を出版すると反魔女を展開し強く訴える。1692年セイレムの魔女裁判で湧き上がったヒステリーの下地は この本によってつくり出されたといっても過言ではない。その後植民地総督ウィリアム・フィリップス卿に裁判公式記録者に任命されたC・メイザーは「魔女を残らず探し出し刑に処するべきだ。」と訴えニューイングランドに対する魔王の陰謀は、セイレムの裁判によって裁かれると信じきっていた。また清く道徳的なピューリタンに対し魔王は激怒しその地域社会を崩壊させようと企んでいるとも考えていた。


彼は 40年前ニューイングランドでの魔女の処刑をしばしば引き合いに出しては、妖術の「陰謀」を説き もし発見が遅れることになったら全ての教会は 魔王によって破壊されることになるだろうと言明した。C・メーザーによれば それらの陰謀は ここセイレムで発見され打ち砕かれたという。ある日のこと 魔術の罪で有罪判決がくだったジョージ・バローズの絞首刑にC・メイザーが立ち会うことになった。死を目前にしたバローズが公衆の面前で試されたのは 主への祈りの暗唱であった。バローズが寸分の狂いもなく暗唱すると群集は有罪判決に疑いを持ち出す。しかしC・メイザーは、ひるむことなくその暗唱を否定する演説で執行を続行させた。


1693年裁判の記録でもある「妖術・不可視の世界の驚異」を出版したが 実際は正しい記録ではなくその内容は 彼自身の偏見そのものであった。セイレムの魔女裁判に対する民衆の反発に対しても メイザーは自分の考えを曲げることなく彼は よりいっそう自分の考えは正しいと確信を深めていった。ところがメイザーにこの上ない批判を浴びせたある人物がいた。「燃える火から引き抜かれた燃え木・目に見えぬ世界のさらなる驚異」の著者、ロバート・カレフがその人だ。カレフは コトン・メイザーおよびその父インクリースを戯画風にこのように批判した。

「淫らな含意を有する悪魔憑きにかかった若い女性に興味を刺激される好色漢」

当初ニューイングランドの全ての出版社は この「目に見えぬさらなる驚異」に手をださなかったが1700年初頭、ロンドンで出版され後に東部13州に逆輸入され晒されることとなる。これに拠りピューリタンC・メイザーの名声は失墜したが生涯妖術に関しての自説は曲げることはなかった。

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)