イエス・キリストの誕生日

mminazuki2005-09-01

キリストの受胎告知は3月25日で誕生日は12月25日である。12月25日は一年で最も闇の濃い日であり その日の真夜中 しじまに包まれイエスは生まれた。この条件から導かれる寓意は一つ。 闇に閉ざされたこの世に 光をもたらす者として イエスキリストの降誕劇は設定された。しかし果たしてイエスの誕生日は 12月24日が正しいのだろうか?


三賢人と三つの贈り物

王の言葉を聞き彼らが出かけると みよ。東方で見た星が先に進み
やがてそれは、幼子のいる場所の上で留まった。
星を見ると 彼らは大いなる喜びに満たされた。
家に入り 幼子と母マリアに会うと 彼らは平伏して拝んだ。
そして宝物箱を開けると 黄金 乳香 没薬の贈り物を捧げた。
彼らは夢で ヘロデのところへ帰っては成らないとのお告げをうけたため 
彼らは別の道を通って自国へ帰っていった。(二章9〜12)


エスの波乱に満ちた生涯は 実際何時から始まるのだろう。紀元前63年以来 パレスチナは ローマ帝国の属州であったシリアに併合されていた。ポンペイウスの政治原理に従い紀元前37年 オクタビアヌスに拠りヘロデがユダヤの王に叙された。彼の治世は、内に圧政、ローマに追従を旨としていた。イエスは この政治体制の時生まれたとされているが、救世主の誕生は 国政の乱れ また自分の首も危ぶまれる。そこでヘロデは、考えた。救世主を名乗るものを亡き者にしようとちょうど東方から 救世主を祝いにやってくる三賢人に幼子の居場所を突き止めさせるべく 自分も祝福に行きたいので是非居場所がわかったら宮廷に寄って伝えて欲しいと三賢人に命じる。だがヘロデは この三賢人が見た夢のお告げにより幼子イエスを見つけ出すことは出来なかったのである。聖書によると ヘロデはその後ベツレヘムにいる「二歳以下」の男の子を一人残らず殺させた。この聖書の記述により 残忍なヘロデ王が、自分の地位を脅かす救世主イエスが 「どこで」「いつ」生まれたのかは知る事が出来ずにいたことがわかる。実際は このときイエスは、生後8ヶ月であったのだった。

聖書には、イエスの生涯をしるした4つの福音書が存在する。三賢人が登場するのは「マタイによる福音書」で新約聖書の物語の中で特に古い書物である。現在は1901年にエジプトからの旅行者が持ち帰ってたものをオックスフォード大学モードリンカレッジで保管されている。この福音書からイエスの正しい誕生日を導き出せないかととの試みがなされた。


There came wise men from the east seying
Where is he that is born King of theJews?

聖書原書
There came"Magi" from the east seying
Where is he that is born King of theJews?

▼"Magi"とは?
福音書は ギリシア語だが Magiは ペルシア語であった。意味は ペルシアの司祭 つまり ゾロアスター教の神官である。マジックの語源は このMagiである。ゾロアスター教の信者は ユダヤ人と同じように救世主の誕生を星が知らせてくれると信じていた。そこで占星術を知るマギは、救世主のもとへと導く星を探していた。他にも 彼ら三賢人とペルシアを結びつけるヒントがある。イタリアのラベンダにある6世紀のキリスト教美術の初期の壁画に三賢人がベツレヘムの星とともに描かれている。衣装は尖った帽子、チュニックと言う上着 そしてズボン。尖った帽子は 後に魔法使いを描くシンボルとなるのだが 紀元前4.5世紀 ズボンをはいていたのは、ペルシア人だけであった。また古代ペルシアの有名な遺跡 ペルセポリスの宮殿、この廃墟に三賢人の出身地を示すヒントが隠されている。宮殿の中心に繋がる東の階段には この時代ペルシア帝国にいた様々な民族が彫られている。この中で注目すべきはパルティア人である。パルディア人は、ペルシアを征服。キリストが生まれた頃には ペルシア全体を支配していた。この階段に彫られたパルティア人の衣装は 尖った帽子にズボンといういでたちだった。したがって三賢人は、ペルシアから来たと考えられる。
▼修道士デュオニシウス
実は 西暦元年には間違いがあった。修道士デュオニシウスは計算が苦手だった。彼は、古代ローマの暦に代わるキリスト教の暦を作るにあたりイエスキリストの誕生を紀元とすることにした。ところがミスを犯す。デュオニシウスが計算に使ったのは 歴代ローマ皇帝の統治期間であった。それぞれの統治期間を順番に足しキリストの誕生まで逆算する。間違いが起きたのは アウグストゥスの在位中である。キリストは このとき生まれている。統治期間、在位を記述した資料群には 異なる二つの記述が記されている。アウグストゥス在位 紀元前31〜紀元14年 別の資料 アウグストゥス 在位 紀元前27〜紀元14年
▼資料の4年の差
アウグストゥスは 最初の4年間オクタビアヌスという名前を使用していたため デュオニシウスはこの4年間を数え忘れたのだ。更に彼は 0年を忘れると言う致命的間違いを犯した。デュオニシウスは キリスト誕生前の紀元前1年から ゼロ年を抜かし紀元一年に飛んでしまったのである。こうして西暦には、5年の空白が生じた。実際 私たちが祝ったミレニアムは2000年ではなく1995年が正しい。つまりイエスが生まれたのも紀元前5〜6年の間であるとわかってきた。
▼生まれた日にち
デュオニシウスが暦を作った頃には、キリスト誕生の正確な日付は わからなくなっていた。そこで教会は、太陽の神の誕生を祝う古代ローマの祝日12月25日を採用した。これは イエスの実際の誕生日とは 関係がなかったが、Xmasは 12月25日になった。
▼イエスの実際の誕生日
エスの誕生日を正確にわりだすには紀元前5.6年に星を追って旅した三賢人の足取りとベツレヘムの星がいつ現れたかが手がかりになる。東から来た三賢人は、救世主の誕生を知らせる星に導かれヘロデ王のいるエルサレムにたどり着く。では紀元前5.6年の何時頃 そのような星が現れたかが判ればイエスの誕生日を特定できるのではないだろうか。聖書によれば その星は ずっと見えていたわけではなく彼らがエルサレムを出る頃 再び現れ南のベツレヘムまで導いたと書かれている。


"みよ!東方で見た星が 先に進んで
幼子のいる場所までいき その上で留まった"

その星は 三賢人をペルシャから エルサレムに導き 一旦消え再び南の空に現れベツレヘムに導いた。多くの人々が 何世紀にもわたり この星を突き止めようとしたが聖書の描写に当てはまる有力な説は誰もが導き出せなかった。しかしそんな難問を見事に解いた学者がいる。ラトガーズ大学天文学教授 古代占星術研究者マイケル モルナーである。モルナーは、ベツレヘムの謎解きをコインが示したと述べる。このコインは古代ローマのもので星を振り返ってみる牡羊が描かれている。古代占星術で 牡羊座ユダヤを表す印と彼は知っていた。モルナーは考えた。空の牡羊座で起きたどのような動きを三賢人は見たのだろうか。ベツレヘムの星を理解するのは、2000年前の占星術師と同じ視点で考えなければならない。彼は2000年前の星空をコンピュータで再現した。当時、王家の印と呼ばれた星、それは木星であった。また新しい王を現す星でもあった。三賢人は 木星を見て王の誕生を知ったのだ。
木星が天体の何所に現れたか
木星は、牡羊座の星たちの中に輝いて見えた。これが全ての謎を解く鍵になった。この日の空には、木星が明けの明星のように東の空に現れ三賢人は、あたらしい王を生み出す最大の力を得たと解釈したのだった。木星は、新しい王を現す星であり ユダヤを象徴する牡羊座の中で輝いたことで 救世主の誕生の場所も特定できたのである。モルナーは 二千年間 誰も気づかなかったことに気づいた。イエスが生まれた日の空では 珍しい現象が起きていた。優れた占星術師でなければわかりにくいが星は 王の中の王がユダヤの中に生まれたことを示した。モルナーは この発見により日にちも特定した。紀元前6年4月17日。またモルナーは、イエスが生まれたとされる誕生の日を裏付ける記述を聖書の中で見つける。イエスが4月17日生まれということは 理論的にはわかっていても証拠が必要となるからだ。証拠は、聖書の記述にあるイエスの誕生に駆けつけ間に合った羊飼いから得た。


"羊飼いたちは 夜通し羊の番をしていた"


この記述がイエスの生まれ月を示す鍵となる。ベツレヘムで70年間羊飼いをしているアブラハムは こう話す。羊を夜通し外に出しておくのは 4月から9月まで12月のベツレヘムは 寒すぎてどんな家畜も外にはださない。モルナーは 東の国で星を観察していた三賢人もこの日の星の意味に気づき生まれたばかりの王に会いににエルサレムに旅立ったと考える。しかし2000年前ペルシアから エルサレムまで旅するのは大変な事であった。直線距離にして1600キロ。間には アラビアの砂漠が横たわり しかも 三賢人が星を見たのが4月17日であるならば夏の訪れは近い。太陽が照り付ける灼熱の真夏を避け 9月に入ってからペルシア(今のイラン)を出発。バビロン(現在イラク)を通り チグリス ユーフラテス川に沿って 水を確保しながら進み砂漠の一番狭い部分を横切ってアレッフォに達する。そこから エルサレムまでは 一直線である。エルサレムまで 何ヶ月かかかったのかは、明確ではないが 何故 直接ベツレヘムへ行かなかったかは、彼らが見た星はユダヤの国という大まかな方角を示しただけだったからだ。4月17日の星は、ユダヤで偉大な王が生まれることを示しただけでどの街かは、示さなかった。


三賢人が知らずに危険な領域ユダヤの都エルサレムについた頃には 冬になっていた。モルナーの計算から イエスは生後8ヶ月。。だが三賢人がこの危険な領域でヘロデとであったことで 冬の到来も裏付けられる。ローマに任命されユダヤの王になったヘロデは気性が荒いことで有名だったが、紀元前6世紀の秋以降ヘロデは 大変不機嫌だった。持病の腎臓病と生殖器の壊疽の悪化で彼を更にいらだたせていた。ヘロデが建てた神殿の丘は、ユダヤ人にも異邦人にも解放され当時、情報交換の場でもあったが 自分に代わる王が生まれたことで彼の苛立ちは頂点に達し神経は過敏になっていた。そこでヘロデは、この神殿にスパイを配置する。間も無くスパイは、神殿で妙な質問をして回っている外国人を見つけヘロデに密告。そこで三賢人を宮廷に呼び寄せこう告げると新しい王の元へと送りだした。


"その子供が見つかったら知らせてくれ私も言って拝もう。"


勿論 拝むつもりは無い。三賢人が見つけ出した場所に兵士を送れば 子供は、隠されるだろうと考え彼らを騙し利用しようとしたのだ。宮廷をでた三賢人は、今のアルメニア人居住区辺りを世を徹してすすむ。ベツレヘムまでは8キロの距離。このとき聖書によれば 再びあの星が見えたと記されている。マタイによる福音によると 東方に出た星が 先に進み 幼子のいる場所に留まったとある。この意味を廻って様々な憶測がされてきたが三賢人を得るさえルへと導いたこの謎は、珍しい星の並びにあり またこのときも星が不自然な動きをしたのだった。モルナーによればエルサレムに辿り付いた後ベツレヘムに導かれた理由をこう述べる。
▼当時の木星の動き
エルサレムからベツレヘムまで歩くと 最初の数キロは まったくベツレヘムが見えない。しかし一つの丘を越えると とたんに視界がひらける。木星が東の牡羊座にあった紀元前6年4月17日から その年の12月にかけての木星の動きに注目すると木星牡羊座の後ろ足を抜けて尾まで達するとまた戻るという不思議な動きをしていたのだ。三賢人は 彼らなりの解釈と言い回しで幼子のいる場所に留まったと言っている。三賢人が、辿り付いたエルサレムの地から見た空の木星の真下は、ベツレヘム。実際は移動した木星も 視界の悪い丘の存在もあり三賢人の目から観れば 空は動いているのに木星は留まったままだったのである。
▼居所
小さな洞窟の上に立てられたべツレヘム生誕教会 イエスは この洞窟の中で生まれたといわれている。確かな証拠はないが イエスの死から160年後 正式に誕生に地とされている。この洞窟の中で 三賢人ははるばるペルシアから持ってきた贈り物をイエスに捧げる。イエスが産まれたのは家畜小屋 生まれたばかりのイエスが飼い葉おけに寝かされていたとしても三賢人は その場にいなかった。間に合ったのは羊飼いだけである。つまり三賢人がベツレヘムにたどりついた頃には イエスは 既に新生児ではなかったということがわかる。こうしてイエスの本当の誕生日は、木星の輝いた4月17日 そしてその冬、空の木星の位置から 彼らがベツレヘムの救世主の元ににたどり着いたのは12月17日であった事が導き出されたのである。



おまけ
三賢人は 夢でお告げを見たことからヘロデのところへ帰らず別の道を通り自分たちの国に帰る。幼子イエスは、これにより難を逃れ ヨセフとマリアは イエスを連れエジプトに逃亡。クレオパトラの雇う庭師の同胞の助けをかりイエスを守りぬき ヘロデ王が死ぬとようやく故郷にもどれたのであった。

占星術で救世主が決定されたお話でした。


アウグストゥス

ヘロデ王

参考資料
ディスカバリーチャンネル「ミイラが明かす謎」
聖書神話の解読      西山清